私のトランスパーソナル
2012年2月5日
文責:都甲泰弘 [三国ヶ丘心理相談所]
◇はじめに◇
トランスパーソナルとは、字義から言うと個を超えるということであるがパーソナル・プラスという意味、つまり、通常の心のいとなみに平均的な種々の体験を超えた体験であり、その探求していく先はスピリチュアリティである。つまり、心の(全存在の)深さと 広さと 長さと 強さを付け加えたものであり、そこは個を超えた領域と言える境涯でもある。
トランスパーソナルという用語がはじめて登場したのは1905年のウィリアムジェームスの講演記録にあるが、こうした考え方は1960年代中頃からのケン・ウィルバーやウィリアムジェームス、カール・ユング、ロベルト・アサジョーリ、エリク・エリクソンの研究に由来するものである。そして、エイブラハム・マズロウーは「人間性のさらなる到達点」と言っている。
もう少し詳しく言うと、分離した自我の確立以前の前個的水準から、十全な自我機能をもつ個的な水準に進み、そして、自我は依然機能しているが、より包括的な視点をもつ枠組みに取って代われる超個的に至る発達のベクトルで捉えられている。こうした考え方は、ケン・ウィルバーらの研究に依ると人間の意識の発達は、まず、独立して機能する自我が分化し、さらに自我への執着を乗り越える段階に至ることを観察している。
病や運命難に陥って心身の健康を損ねている、あるいは、そのようにならないばかりかより一層人間性の高機能の発揮を目指す、いわば病理的と霊性の両方の多くの異なった状態を対象とする考え方の領域としてトランスパーソナルが布置される。
WHO(世界保健機構)は憲章改正案の中で、健康についての定義を次の様に示している。「健康とは完全な肉体的・精神的・スピリチュアル及び社会的福祉のダイナミックな状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」とし、健康の定義にスピリチュアルな健康さを加えている。
苦痛には、1、肉体的苦痛 2、精神的苦痛 3、社会的苦痛 4、霊的苦痛(スピリチュアルペイン)の4つがあるとしている。
つまり、人間存在の全ての領域を統合する必要性を主張している。(インテグラル)
人は、死の危機に直面した時とか、人生の運命難に陥った時など、人生の意味、苦難の意味、死後の問題などが問われ始めた重大な時、その解決をめぐって人間を超えた超越者や内面の究極的自己(SELF)に出会うことによって救われる。
日常生活では、知性や理性心で以って合理的に対応しようとするも、それは本心でない場合が多くあり納得、釈然としないものが残る。
しかし、スピリチュアルな対応では日常生活では忘れられていた目に見えない世界に人間を超えたところに新たな意味を見つけて新しい「存在の枠組み」「自己同一性」に気づくことができる。それは時に、“私が矛盾を解決するのではなく、矛盾が私を解決する”というような体験すら生じてくる。将に、スピリチュアルの成せる業である。
つまり、スピリチュアル(霊性)とは、心と身と霊魂が相互に連環し合って円環運動をなすことである。有限を超えて無限になる、そして再び有限に戻る。そして、この運動の中心は非実体の根本的関係性(空)である。しかし、パーソナルなレベルを超えてトランスパーソナルなものがあるのではなく、本来はパーソナルなもの、それ自体がトランスパーソナルなものである。
さてそれでは、いよいよ私のトランスパーソナル体験に入って行くことにいたしましょう。その為の手段として瞑想技法をもちいます。準備として、心の構えと体の構えをしっかりと調えます。
まずはどのような展開になって行くか、次にお示ししますのをご判読ください。
◇「見えざる実在を探ねて」―心と体のいのち隠し―◇
丈夫で元気で幸せに暮らしたい、と人は願います。その為には、まず健康と運命とを正しく保ち、活き甲斐のある人生を送る為に人間としての命の力を豊かにすることが第一条件として求められます。命の力を豊かにするということは、こちら側の心身の条件を調えて、「よりよく生きる」(adjust of adapt)ということに繋がります。
このことは心の側面においては、明るく、朗らかに、活きいきとした勇ましい積極的な豊かな心(意識)を持って活きるということに他ならず、より豊かな心(意識)ということは、それを容れる器としての心の広さと深さが求められます。心の奥深さ、それは実在意識から潜在意識、そして霊性意識へと拡がる心の深遠さです。
豊かな精神生活というのは、実在意識にも潜在意識にも拡がりと深さをもった心のいとなみから醸成される内的世界を指します。
実在意識にばかり依存した立場で生活をしていますと、うすっぺらな生活態度に終始してしまいます。ともすると「あれはつまらんことだ」とか「このことは、もうよく知っていて考える必要もない」などといった表層的な対応になってしまいます。これは理性的判断にすぎません。物の考え方が杓子定規で情味がなく生活に潤いが出てきません。体験したことを自分の心の深いところで受けとめて、自分の心の振れを見つめている立場ではありません。これではよりよく活きている姿とは言えません。よりよく活きるには、内外からの情報刺激を心の全体を使って感受して、それを自分を頼りとして、自分の責任で、体にフィードバックさせて主体的に、適応させていくことであり、その姿(態度)と過程は宇宙の秩序(自然の流れ)に順応していなければいけません。
◇自己認証◇
さてそこで、話を元に戻しまして、よりよく活きる主体は何か、何が活きているのか?そして何が生かせているのか?ということを先ず考えることが大切です。この眼に見える肉体が私なのか、また眼には見えないがあると思われている心が本当の私なのか、いやいやそうじゃない、それらを超越した一実在としてのものがある。それは色も形もないエネルギーとしての霊魂。これを、M・プランクは定数Hと言っている。これが私という主体の本質と考える。
それでは、いかにすればそれに出会えるだろうか?
いざ、霊魂の気持ちを知ろう。正確に心を霊的境地に移せば信念的自覚念が発動し意識の中にとらえることができる。つまり、心が肉体を思わない、同時に又、心が心を思わなければ、命の全体が我の本体である霊という気を通じて宇宙創造の根本要素である大霊の中に帰納する。
◇自分探しの旅◇
世の中の喧騒に耐えて行くのが娑婆のとうり相場というものでしょうか。
お隣との比べ合い、頑張れ、頑張れと競争原理に支配されて、何にか知らないが遅れてはならじと、追いかけられているように忙しく走り廻っている御仁をよくお見受けします。そんな世間の流れにこちらの調子を合せてはいけません。外の世界は騒がし過ぎます。自分の流れを創ってみたい。その為に自然の流れに触れてみたい。沿ってみたい。宇宙には大きな自然の流れがあります。自然の流れは宇宙の流れ、それは生命の流れと言ってもよく、システム(自然の法則)が形成されています。
宇宙システムの中に、自然物の一つである吾が個の生命がシンクロナイズするのを感じ取ってみよう。気づかせていただこう。
その為には感じ取れる処が必要です。位置どり、ナイススポット。それはどこかな?ここで軽く眼を閉じて坐ってみましょう。心の内側の世界には、おもちゃ箱をひっくり返したように、観念が雑然といっぱいつまった心の表層的な領域があります。そこは実在意識領域です。
探そうとする自分があります。そして、その実在意識領域を超えてずっと深奥に未だ見えねども探ね当てる対象としての本来の自分とがあります。その道程は険しくもあり、遠い道のりでもあります。しかし、一面いつか出会える愉しい旅でもあります。寅さんとマドンナじゃないですけど、このいとなみは生涯の旅とも言えます。
なによりも坐っていますと、これが自分だと思っていた体が痺れを切らして、前に立ちはだかって、前に進ませてくれない。どうかここはひとつ御平らにとお願いしても許してはもらえず。やっさもっさと心と体が押し問答を幾度となく繰り返しているうちに切らした体の痺れの方が痺れを切らしたのか、戦い済んで、心と体に和平が成立します。そして今までに痛みを感じていたのは、「お前が痛かったのではなく、お前の体というものに痛みというものが生まれていただけであって、お前自身が痛かったのではない」という天声を感受します。そして、あ、そうなんだ、この体は本来の自分ではなかったんだと思い知らされます。
しかし、何と言いましても体という代物が内・外の境界を構築しており、外敵から内側を防衛しています。そして私の思いや考えをそれを用いて表現し、現実を生きていってくれている存在である限り、体という境界を譲ることは疎かにしてはいけません。私は体ではないけれど、私の体であります。その内側に心の全体が隠されています。その心にもある程度身を護る為につける甲冑や鎧みたいなものがあって、いろんな甲冑を被り代えては安定化工作を図って凌いでいるのです。
ともあれ、旅を進めるにはその方向を内側にとってみましょう。この実在意識領域は比較的理性的なところです。いま、自分が何を感じて、何を行おうとしているのか充分に自覚できているのが判ります。体中に張り巡らされたアンテナからの情報がここにいっぱい入って来ます。そんな情報刺激に対して充分な分析も内省もしないで不用意に反応してしまっている嫌いがあります。もっと、心の深い処からの叫びに耳を傾けたいものです。その様な人たちには、「本当に人間としての自覚をもって自分らしく活きているのですか」と尋ねたくなります。人間としての本来の自分を偽らずに生きるということは、感謝や歓喜、そして攻撃性やエロスへの衝動をもふくめたこころの内容全てを吾が生命として生きることであります。とにかく、深い心からの叫びに対して理解と洞察を示すことをしないで外の世界に専ら強い関心を向け過ぎているやに思われます。こんなことをしているから争いが起こるのです。
心の内容全体を生きるためには、もっと内的世界へ眼を向けて隻手の声を聴こうとする態度が必要となって来ます。内界を掘り下げて行くうちに、ある時、何かしら心にあたると言うか、感じるところがあります。そこがその人にとっての内界の深い処です。その掘って行った内界の深さの程度は、同時に、自分が現実の外の世界の事象に対してとれる(心理的)距離と関係があるように思えます。つまり、内・外は対応しているように思われます。言葉を換えて言いますと、本来の自己に近づける程度に応じて外の世界で起こっている対象に対してディスタンスをとれます。その内面の深い処がその人のその時の心の拠り所となる中心点(軸)です。そこから世に向けて自分を発信していけばよいのです。そうしますと、こだわりはなく、争いも起こりません。
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◇旅先での出会い◇
目を閉じて心静かに、ぐっと坐って一層深い内界に気持ちを向けてみましょう。どんな風に感じられてくるでしょうか。陽が差す外の世界へ向いていた実在意識に対して、抑圧されたいろんな体験が影として映っている潜在意識領域です。ここには人間の複合した感情(コンプレックス)が消極的な情念としてカオスの状態で在ります。それは未整理で意識することができません。そのところよりも、もっと深い層では吾々人類の歴史、そして生物の歴史を受け継いできた情報がその底を流れています。瞑想が進むに従い、心がこれ迄の「多心」の状態から「無心」の状態へと段々と調ってきて、内界の魑魅魍魎たるところを通り抜けることができます。消極的観念は然るべき所に消褪され、代わって特別な聖域がぱっと開けてきて無畏な大安心境の中に自分が在るのを体感します。そこは絶対の静寂、そして次に何かが産み出される創成の静けさが既に用意されて在るのです。
只管打座。険しい所もあり、辛いこともあった長い旅。遂にたどり着いたこの聖域での感じをしみじみと味あわせていただく。これは、段階を踏んでたどり着くこともあれば、ある日ある時、突然到達することもある霊的境地です。そしてこの心境が消えていく過程もまた同じようなプロセスを踏むと言えます。
旅のはじめは濛々とした毒ガスを体から発し、心は穢れ、汚れていて、醜く弱々しい状態でしたが、それが何とここに到りますと、綺麗なオーラが体から出てきて、これまでになかった形容のできないほどの明るい心境に到達します。深く深く濾過された地下の清泉のような、自己の本体がシンクロナイズしている生命本体に行き着いたのです。それは外界への感覚を急速に失い、これ迄とは異なる潜在的な別の意識が勝手に顕れて来ます。それは“え”も言えない心境で、かつ可成り激しい情動が流れています。ここに自分が在ることに対して無上の歓びと感謝の念が自然と湧き出て来るのを覚えます。「有難うございます」と、それは特別何に対してと言う訳でもなく、素直に口をついて出て来ます。忘我的エクスタシー状態を伴う至高体験と言いましょうか、神秘的な体験です。
この状態は宇宙の根本主体と人間の生命とが一体になる状態です。そして一体になりますと、宇宙本体のもつ限りなき力と叡智が個の生命の中に受け入れられます。その宇宙からのエネルギーが吾が生命に流れ込んでくる感じは自分が宇宙と同化し宇宙的存在として感受します。そして、どっしりとした充実感となにか指針を与えられたことによる雀躍する感激に咽びます。
もっと、自分の方に引き寄せて、極めて主観的に平たく言うことを許されるならば、次のように言うこともできます。
瞑想を進めていますと、自分と言う主体にスィートな感じを覚えます。そして大生命と繋がったかなという感じがしだします。それはある接点のように感じられる漠然としたかすかな感じです。しかしその繋がりを大切にしていきますと大安心感が生まれてきます。そして浮揚感が出て来て、自分という意識が消えたかのような感じになります。この時は、恐らく自分という個を超えているのだと思います。そしてややもすると、ふと「存在が俺をしている」という感覚が出て来ます。そして体中の気の流れが大宇宙の大きな流れと同調しているかのような自然な躍動感を覚えます。心は素直になり全てを許せる心境になり、歓びと感謝の気持ちが湧いて来ます。そして、微笑みが現実の表現として坐っていて顕れて来ます。「在ることをしている俺がここにいる」と感じられます。その感覚はいつまでも続くものでなく僅かな時間です。しかし、その短い時間に感受した体験が自我に統合されます。このことが極めて大切です。まず力強さが出ます。足元がしっかりして踏ん張りができるようになります。生きていく確かさが出来ます。一口で言うと、真の自律が出来たということになります。つまり、自律ということは、自分を本来の所に立たせ得たことに他ならないのです。相対的な現実の社会に身を置いて生活をしているのですから実在意識と対極にある霊的境地に触れて、永遠なものとの関係を結ばない限り真の意味の自律は出来ないのです。
こうして自分がこのような本来の自己と出会うという時は生きた神の体験と言えます。
このような至高体験は宇宙や地球や人間を創造した力の本体と出会うことであり、そしてそれと同化することによって感受することができます。
ここ霊的境地は、実在意識領域でのあの論理的構造的な理性を中心にして展開していく相ではなく、大生命のもつ叡智と力があるところ、それに同調するのですから無碍にして自在、拡がりと深さを有する無限のいのちが在るところです。
造物主たる大生命には真・善・美という属性があります。より本当の心、誠と愛と調和が造物主の性質としてあるのが大生命のリアリティです。そしてそれと出会えて同化できるということが、つまりこのような大生命のもつ創造性に触れることのできた人がリアリストです。本来の自分との出会いです。これが心境を払拭し煩悩を離脱した自分自身の相です。
しかし、実際にはそれ程深いところ迄到達できていなくとも、自覚的にそれ程深いところ、と感じていることがその人のアクチュアリティであります。つまり、リアリティは真・善・美という抽象的想像の世界、本質ですが、アクチュアリティはその人個人の五感感覚が関与しているかもしれないところのその人固有のものであります。
従って、人はどれだけ自らを深められるかにかかっています。自らを探求し、個を超えることができるか否かが真人生への道程であります。そして又、「本来の自己」に出会った丈ではまだ十分とは言えません。これは飽くまでも往路でありまして帰りがあります。道筋を間違えますと、とんでもない所に出てしまい、とんでもないものに成ります。
本来の自己に出会えたということは、これはすごいことでありまして実にサプライズドなことです。何故かと申しますと、本来の自己に出会えたということは実は霊魂を感じることが出来たことであり、このことはそこに処を置く心身の最高主催者である意思の力の発現を許されたことになる訳ですから。これまで悩みや苦しみといった本能心のコントロールに対しててこずっていた気持ちがこの意思力の煥発によって統御出来るようになったわけです。
意思の力は人生を美しく向上させる原動力であります。これが煥発されますと、本当に恵まれた人生に活きることができるようになります。こういうことを考えますと、人間の一生というのは自分自身に成る為の道です。そしてその道には道筋があります。心と体と魂が相互に連関し合って有限の世界から無限の世界へ、そして再び有限の世界へとサーキットをなしていると言えます。(円環運動)。そしてその運動の中心は何を隠そう見えざる実在の超越的なもの<気>であります。これが霊性の発揮のありすがたです。
結局、どういうことをして来たのかと申しますと、実在意識を中心にしていた自分を潜在意識の深いところに移すことによって本来の自分を探し当てることができ、そこに漂っている宇宙創造のエネルギーを享受することができた。そしてそのエネルギーで以って再び実在意識領に還る過程で日常生活に於いてこれ迄経験した潜在意識の建設的な内容をも動員し、実在意識とオルガナイズ出来た時、心身は霊性状態となり新しいヒント(叡智)が自ずと与えられるという、心のすべて、いのちのすべてを活かせて生きることを探求する旅でありました。
はじめ独りで立った旅もこの様な感じが出て来ますと「一人でも二人」という気持ちが生じて来ましたし、一方、現実世界に於いても「二人で生きていても一人」で生きていけるという「孤ならず」の気持ちが湧き、自分という主体が活きて行く上での将来の平安を保障してくれたようです。
おわり
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